ヴェルニー・小栗祭へ

2005.11.13/14

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ドックをバックに 公園より町並み 式典会場 音楽隊
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マイケルと宮原さん 倉渕村から参加者 レストランが出来ました。
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ヴェルニー記念館方面を望む
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レセプション会場 記念撮影 公園のバラ
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銅像と説明文
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カレーフェスティバル会場
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凄い人です 防衛大学
棒倒し会場
民宿 嘉山
ここでしか食べられません〜
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ソレイユの丘 カンナも咲いています →浦賀
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会津藩士の墓付近 鳳凰丸 サスケハナ号 咸臨丸
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浦賀奉行所模型 浦賀町並み模型 灯台模型 クロガネモチ
(雌の木)
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浦賀奉行所跡へ
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会津藩士の墓
    ↑ 上記説明文コピー

横須賀市指定史跡
 会津藩士墓地         昭和59年4月指定

 ここ腰越墓地には会津藩士および家族の墓二十三基が存在する。
 この歴史は文化七年(1810)藩主松平容衆が幕府の命令を受けて、三浦半島の海岸警備ならびに
台場へ砲台)構築の任務にあたったことに始まる。これは当時、漂流民の引渡と通商を求めて日本沿岸
に出没する外国船に対して、鎖国をしていた徳川幕府としては、それら外敵からの江戸城防衛のため、
緊急の大事であった。
 防府は多くの大名から敢えて会津藩にこの大役を命じたのは同藩に対する信頼が篤かったためと考え
られ、そうした齢府の期待に応えるべく、藩主は直ちに家老西郷頼母をはじめ八百余名の藩士ならびに
その家族を同年十一月に送りこんだ。そして、観音崎・浦賀平根山・城ケ島に台場を構築した。
 文政3年(1820)十二月にその任務は解かれたが、その間、会津藩士はいずれも一家を挙げて、
居をこの地に移して海防の任務にあたった。彼らにとって、はじめて経験する異郷での十年間にわたる
生活は厳しいものであったにちがいない。いま三浦半島のハケ所(鴨居西徳寺・能満寺、走水円照寺な
ど)に存在する墓石かそれを如実に物語っている。
 あわせて、我々はこの台場梢築という重大な土木工事のために地元横須賀の人々も働いていたことも
忘れてはならない。
 そして嘉永六年こハ双三)には、ペリーが浦賀に来航し開国への道をすすむ。
 この会津藩士墓地は開国という大きな歴史の流れの中で、江戸湾(東京湾)および三浦半島を守るた
めに活躍した藩士と幕末の横須賀を知る上で貴重な史跡である。
                                      横須賀市教育委員会
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