小栗上野介と「文明的愛国」 |
市川八十夫 |
江戸時代の日本は徳川幕府の統治下にあったものの、国の実体は 藩王国の寄合世帯の如きものであった。幕府の威勢が衰えてくると力 のある大藩は幕府の命令に従わなくなり、国政は滞り、特に対外国問 題の処理には矛盾と混乱を生じるようになった。 小栗上野介はこのような時期、幕府の要職につき、国政の処理に挺 身した開明進取の政治家であった。 彼は海外事情に明るく、国際感覚もあったから、現在の幕藩体制を廃 止して真の統一国家にしなければ、日本国の存在も発展もないと考え、 統一日本の構想を練った。 それは大名制度を廃止し、郡県制をしき、中央政府を設ける。 国政の運営は将軍を議長とする大名会議(国会の如きもの)の合議と する。全国より中央政府に税を納めさせて国政の費に充てる。 このようにして国の隅々まで神経の通う統一国家を作る構想であった。 この際、もっとも妨害になるのは、何事によらず幕府に反抗的な立場を とる薩・長であるが、これを討伐すれば他はなんとかなるであろうと。 小栗はこの郡県制移行による日本統一の構想を勝海舟にも打ち明け ている。その時、海舟は賛否の意見も言わず黙したままであったという。 (勝部真長『勝海舟』下) それは、将軍を議長とする大名会議の構想の如き幕府の残滓を温存す る様なものだが、これも当時「当面の策」として止む得まい。ただ「国政」 は独裁をさけて合議によるべしとの考えは出している。 また、天皇は棚あげして国政の場には出さない考えも今に通じるものが ある。この点「王政復古派」とは対照的である。 薩・長を中心とする勤王派にしても、内実は倒幕の口実を得るためである。 「天皇御親政」と唱えながら、熱心な公武合体派の孝明天皇を排斥して幼 帝を擁立して、勝手に操っているではないか。 この辺の事情を承知している小栗は、薩長を中心とする。「官軍」は政権 奪取のための倒幕軍にすぎないとして断固抗戦を主張したのである。 次に、本村岩氷出身の文学者塚越亭春楼の小栗詳(『読史余録・小栗上 野介』明治34・民友社)引用して結びとしたい。 『蓋し、彼は最も熱心になる佐幕派にして、外債を起こして薩長を征討すべ しとの意見を有せし程なりしが、その国を愛する情に至っては決して当時の 自ら愛国家と称する者に劣らざりき、唯、勤王攘夷党の如き王家(天皇)を中 心とせる固陋狭隘なる愛国者にあらずして、彼は百世の日本を目的としたる 愛国者なりしなり。 彼は身、江戸政府(当時の日本政府)の一吏員なるを以て、能くその事ふる 所に忠なるを自分の本分と信じたると共に、彼は 「文明的愛国」の意味を解 し、百世の日本のために開明富強の基礎を作ることに勉めたり。』と。 「文明的愛国」、なんと含蓄のある言葉ではないか。 ――――中央小だより 第55号より―――― |