小栗上野介に学ぶ

〜その知られざる歴史〜
村上泰賢住職(倉渕村東善寺)
          罪なくして斬らる

 慶応4年(1868)閏4月6日朝、小栗上野介は家臣三名と共に水沼(倉渕村)の烏川河原に引き出された。幕府から「帰農願」の許可を得て、領地の権田村(倉渕村権田)に移り住み、家族と共に6余日を過ごしただけで、明治新政府軍により無実の罪をもって一方的に処断され、むなしく烏川の露と消えていった。
 処刑が終わると主従の首は青竹に刺して道端の土手にさらされ、次のような無実の罪状をつげる高札が建てられた。「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめし者なり 東山道鎮撫総督府試使員」。
  勘定奉行を免職になった上野介は、彰義隊や会津への参加を誘われると「新しい政府に内紛が起きて、国内が混乱し外国に乗じられるようなら自分の役目もあろう。その心配もなく過ごすなら前政府の頑固な一員として静かに世を過ごすつもり・・・・・・・」と断って権田村へ引き移り、村の若者に教育を行って、新しい時代に備えようとしていた。屋敷の完成も近づき、江戸育ちの道子夫人や母堂らも山村の暮らしに慣れ、これからというときに迎えた非業の死であった。


        勝てば官軍、か


 昭和4年、上野介の遺徳をしのび非業の最期を悼む村民は寄金を集め、この処刑地に顕彰慰霊碑を建てる計画を進めた。碑文には、『偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる』という文字が刻まれる予定であった。ところがまもなく建碑責任者の市川元吉村長は、高崎署署長の呼び出しを受ける。「碑文に罪なくして斬らるとあるが、斬ったのは官軍だ。天皇様の軍隊が罪のない者を斬る筈がない、あの碑はおだやかではない、なんとかしろ。」と署長は告げた。
 「勝てば官軍負ければ賊軍」ということばがある。明治維新に際して、西軍(明治新政府軍)暴虐非道に怒った民衆が権力者の奢りを非難し、たしなめる意味でうまれたことばだが、いつからか「勝ちさえすれば、何をしてもかまわない」という、権力者の都合のよい意味にすり替わり、明治以降昭和20年の敗戦まで、官権軍政治のゆがみを生む原動力になってきたふしがある。署長の言葉も同じ次元の言葉ととられることができる。
 困った市川村長は、碑の撰文揮毫をした京都大学法学部教授蜷川新に手紙を送った。蜷川の母は上野介夫人道子の妹はつ子である。「待っていなさい。田中(田中義一元首相)に伝えるから・・・・・・・」 という蜷川の返事があった後、署長の話は沙汰やみとなって、今も顕彰慰霊碑は建っている。
 じつは、蜷川はこの碑文の他にもう一枚「幕末の偉人小栗上野介終焉の地」を送ってきている。
人はどちらにしようか、と協議の末、やはりこちらが本当だ、と選んだのが問題になった碑文であった。選んだ村人の見識も立派だと思う。このような散文体の碑文は珍しいといわれる。
 もう一枚は現在村長室に掲げられている。

 

        土蔵付き売り家の栄誉

 元治元年(1864)、幕府は横須賀市に日本初の本格的な造船所を建設することを決定し、着工した。アメリカで近代的な造船所を見てきた上野介の主張で、多くの反対論を押さえての決定であった。フランスから招いた技師ヴェルニーほか多くのフランス人技術者の指導を得て工事が始まった。この時現場を指揮している栗本鋤雲に、上野介は「これが出来上がれば土蔵付き売り家の栄誉を残せる」と語っている。幕府はいずれ新しい政府に母屋(政権)を渡すことになろうが、その時土蔵(造船所)付きならりっぱな物だ・・・・・・、という意味である。
 この言葉には幕府のためにだけ造っているという意識は、少しもない。鋤雲もこの言葉に紹介した後に続けて「彼の言葉は一時の諧謔ではない。幕府が保たなくなることはわかっていても、自分が幕府に仕えている限りは、政権担当者として責任を果たさないわけにはゆかない」(『匏庵遺稿』)という彼の気持ちを、終生忘れられないと伝えている。
 作家司馬遼太郎が「政治・政治家という新しい日本語にふさわしい幕末人」(『街道をゆく43三浦半島記』)として上野介をたたえるゆえんである。
 
           小説『大菩薩峠』

 じつは、勝海舟はこのとき「日本で蒸気船を造るなど、百年いや五百年かかる、船は外国から買えばいい、」とうそぶいて造船所建設に反対している。その勝が明治になって、上野介を評し「大した人物だったが、惜しいこに精忠無比の徳川武士だった」(『氷川清話』)と、あたかも徳川のためにしか動かなかったかのように語り、この生き残った男の言葉によって、以後の歴史家や作家が非業の死を遂げた上野介を低く見捨てる風潮や歴史観が生まれた。
 駅にたとえれば、本来は新幹線の駅に比せられるべき人物が、明治以後百年の歴史教育において抹殺され、時には逆賊扱いさえされて、名もない無人駅扱いをされてきたのである。筆者が子供の頃に見た映画「鞍馬天狗」や「怪傑黒頭巾」でも、登場した上野介は謹皇の志士を弾圧する幕府側の黒幕として描かれ、「小栗様」と村人が敬慕する人物とのギャップにとまどい、くやしい思いを味わったものだ。
 しかし、たとえば「歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史・・・・・・・・」と小説『大菩薩峠』に書いた作家中里介山は、「舞台の回し方が正当にゆくならば、あの(維新の)時、西郷を向こうに回して正面に立つ役者が小栗でありました。」(『大菩薩峠Oceanの巻』)と書いて、その死を惜しんでいる。また、日本海海戦でロシアのバルチック船体をうち破った東郷平八郎は、日露戦争終結後、東京の自宅に上野介の遺族を招いている。招かれていってみると、東郷は遺族を上座に据え「あの日本海海戦において、旗艦三笠や主な戦艦、巡洋艦はイギリスなどの外国製であったが、海戦の夜に最後のとどめを刺した駆遂鑑・水雷艇のほとんどはあなたのお父上が造ってくれた須賀造船乗船所で造られたものである。」と礼を言い、「仁義禮智信」と書いた扁額を、縦横二幅贈って功績を称えている。義を知る人のふるまい、というべきであろう。


         スチームハンマー


現在は横須賀米軍基地内になっている造船所に、幕末に設置された3トンのスチームハンマーがあると、以前から聞いていた。平成8年11月15日私たち村の小栗上野介研究会メンバーは、実際に見られることになり米軍基地へ入った。
 工場の入口に出迎えてくれた石渡工場長の案内で入ると、工場の奥まったところにそのハンマーは大きな半円形のアームに支えられ、どっしりと座っていた。驚いたことにまだ現役で動くもので、しかもちょうど仕事が入ったので私たちに見せるために待っていってくれたという。
 真っ赤に焼かれた約300キロの鋼材が天井のクレーンに吊されて運ばれ、ハンマーの真下に据えられるとすぐにハンマーがスチームの力によってスッと引き上げられ、たちまち自重3トンの重みでドンという鈍い音をたてて落とされる。何回か繰り返されると、真っ赤な銅材の頭がたちまち低くつぶれ、とてつもなく大きなボルトに整えられてゆく。その繰り返しを見ているうちに、胸が熱くなってきた。上野介が日本の近代化に役立つことを確信して建設した施設の中で、その当時の道具が130年後の今も実際に役立っているのだ。
 ハンマーを支えるアーチの基部の1865(慶応元)年オランダ・ロッテルダムで製作、という文字が私には誇り高いものに見えた。そして、この造船所が完成したのは1869(明治2)年。その前年に上野介は明治新政府軍に殺されてしまうが、設置されたばかりのハンマーを見ているに違いない。日本の近代化は幕末に始まっているという生きた資料であり、「日本の近代重工学の源泉」(司馬遼太郎)のシンボルがこのスチームハンマーと言えよう。
 しかし、今は年に2〜3回しか使わないこのハンマーは、まもなく新しい工場ができて使われなくなる。もしかしたらこれが最後の仕事かもしれない、という工場長や担当者の言葉もいくぶん寂しそうだった。かつて横山前市長はなんとかして市の文化遺産として残したいと語っていたが、はたしてどうなる事か気がかりな事である。


            栗本鋤雲

 1864(元治元)年11月、幕府は運搬船翔鶴丸の機関修理をすることになった。従来の蒸気船修理は手間と経費がかかるわりには故障することが多く、なんとかしたいと考えた酒井飛騨守は監察として横浜に在任中の栗本鋤雲を呼び、横浜に来ているフランス軍艦に頼むことほか命じた。フランス公使ロッシュや書記官カンションと親しく、フランス語を話せる栗本鋤雲の手腕に期待したのである。
 軍艦ケリエル号の士官や職工の手により修理がすすんだ12月中旬のある日、晴れて風が激しい夕方、役所を終えて官邸に帰ろうとして鋤雲は街角を曲がりかけ、後ろから駆けてきた二頭の馬上から大声で呼びかけられた。
 「やあ、瀬兵衛(鋤雲のこと)殿、上手くやったな、感服感服」
見れば小栗上野介とその従者である。
「何をうまくやったというのです」
「翔鶴丸の修復だよ」
「あなたはもう見てきたのですか」
「見たとも見たとも、しかも大見だ。今日は英国のオリエンタル銀行に用事があってやってきた。出先の者でも用が済むことだが、らちが明かないと困るので午後から自分で来た。用件がすぐに済んだから貴兄に会いたくて役所に寄ったら貴兄が帰った後だった。そこで翔鶴丸に入り船底まで入って全部調べたが、ケトル(機関)も腐食部分も全部とって補習してありとてもよい。それにしてもパイプがよく間に合ったな」
 「実はそれには少し困って、上海にこれに合う品があると聞いたのでちょうどよい船便があったから取り寄せて、早く出来上がったのです。ふつう外国製品を買うには貴殿(勘定奉行)の担当の許可を得なければならないのですが、それをしていると時間がかかってしまうので今回は請負普請の仕上げ勘定で、勝手にやってしまいました」
「ああ、いいともいいとも」
                                    (鋤雲著 『匏庵遺稿』)
 まことに小気味よいキビキビとした会話が交わされている。勘定奉行が直接船底まで降りて修復箇所を確かめる姿は、物事のポインを心得、人任せにしないリアリストの側面をうかがわせる。ワシントンでの造船所見学が生かされているのであろう。「見たとも見たとも、大見だ」という言葉に躍るような嬉しさが出ている。 また、「お役所仕事では間に合わない。やれ評議、やれ回し(稟議のこと)といい、永びいているうちに時期を失すから・・・・・仕上げ勘定で勝手にやった」という鋤雲の言葉もいい。


            日本に造船所を作る  

 このあと鋤雲の官邸に上がり、上野介はこの際フランスの技術援助を受けて本格的な造船所を建設をできないだろうかと切り出す。ドックと製鉄所を造りたい、と上野介は無造作にいうが鋤雲にとってドックとは初めて聞く言葉であり、まして製鉄所などどんな物か見当がつかない。
 当時、アメリカは南北戦争のためる援助を期待できず、ロシアは恫喝外交で嫌われ、イギリスはアヘン戦争以来侵略と日本の未熟さに付け込んで暴利をむさぼるやり口を警戒され、結局翔鶴丸のこともあってフランスにいくぶんの誠意が見られることから、技術援助を乞う国として公使ロッシュに相談がかけられた。
 ロッシュの手配で海軍将校らが協議した結果、推薦されたのが、上海でフランス砲艦を建造し帰国しようとしていたヴェルニーであった。この時20歳。彼にあった幕府の役人はあまりの若さに驚いて「小栗殿はロッシュに騙された」とささやいた。さらに造船所そのものへも、小栗はフランスに国を売ろうとしている。造船所など不要不急だ、金がないのにどうして造るか・・・・・、と反対は激しく、上野介の志を理解しない俗論が渦巻いた。たしかに造船所だけでも毎年60万ドル・4年がかりで計120万ドルの出費になる。上野介はこれについて、
 現在の幕府の経済は全くやりくり身上というやつで、たとえこのことを始めないからといって、その分だけどこかに移してこれを潤すというわけでもない。だからどうしても必要なドック修繕所を造るのだといえば、かえって他の消費を節約する口実にもなるだろう。」と語って建設を進めた。明治になって元幕臣の福地桜痴は、「小栗は、財源を諸税に求めたり、或いは厳しくむだな出費は省いてこれに宛て、いまだかつて財政が困難だからと必要な仕事をためらわせるようなことはなかった、」(『幕末政治家』)とふりかえって、上野介の苦心と努力を伝えている。話を元の米軍基地に戻すと、こういう過程を経て設置されたスチームハンマーなればこそおろそかにしてはいけないと愛惜の思いがつのる。


            ワシントンへ

 1860(万延元)年、アメリカへむけて幕府の遺米使節が発出した。正使新見豊前守、副使村垣淡路守、監察小栗豊前守(のち上野介)の三人が使節。以下役目に従う者がいて計77人の一行だった。開国してアメリカと正式に友好通商条約を結んだ際、日本から使節をアメリカに派遣してこれに批准するという約束があり、井伊大老の任命によりされた使節であった。使節はアメリカの軍艦ポウハタン号に乗って太平洋を渡る。
 途中ハワイ王国によってサンフランシスコに到着、さらにパナマから汽車で大西洋に出て再び船でワシントンまで行きで、ブキャナン大統領に会って条約批准を行った。ワシントンでは海軍造船所を見学し、船ばかりなく大砲や銃などの武器を制作する過程をつぶさに見てきた。


            水洗トイレ

 使節一行は武士ばかりでなかった。小栗家の領地権田村の佐藤藤七もこの一行に加わっていた。藤七が所持していた「渡海日記」が残り、また他の者の記録も刊行されていて一行の様子を読むことができる。
 ハワイでの原住民の様子と対照的な西洋化近代化に驚き、サンフランシスコ到着後はさらに驚くことが増える。すでに電信器が一行の到着をワシントンに伝え、大きなホテルは部屋ごとに電信器があり連絡を取れる。夏でも冷たいアイスクリームが出て不思議がる。じゅうたんが部屋や廊下一面に敷かれている贅沢さも驚きであり、町や室内が綺麗な事、ガス灯がともり、スライド上映に目を見張る。パナマで乗った汽車はまことに速く、車の下の草を見分けられないと述べている。
 数年前、私の寺の外トイレを改築するにあたり、もしやこの一行は水洗トイレを使っていないかと思いついて調べてみると、確かにあった。アメリカではすでに水洗トイレが始まっていて、「便器は陶器で出来ていて、腰掛けて用を足し、終われば右の捩子を回すと汚物が流れる」と図まで丁寧に一行が記録してきている。せっかくだからこの図を拡大し、手製パネルに『サムライは水洗トイレを使った』という題をつけて出来たトイレに掲示した。どうぞごらん下さい。


           米人が動かした咸臨丸
  
 ワシントン造船所の記念写真は勝海舟は写っていないから、使節ではなかったのかという質問がよくでる。勝の乗った咸臨丸は使節の護衛船という名目でサンフランシスコと日本を往復しただけでワシントンには行っていない。その咸臨丸はブルック大尉ほか10人のアメリカ人船員が頼まれて乗り込み、彼らの力があって初めて2月の北太平洋の荒波を乗り切ることが出来た。
 ところが「日本人だけで太平洋を横断した咸臨丸」という話が明治以降の日本の国威発場に利用され、勝が使節のように宣伝され錯覚されてきたのである。アメリカ人船員については、「頼まれてアメリカの水兵たちを乗せてやった」となる。咸臨丸の帰国に当たっても、心配だから、と木村摂津守はブルック大尉に頼んで再びアメリカ人船員5名に乗ってもらって帰国している。
 航海中、勝は年下の木村摂津守が軍艦奉行として乗り組んでいることがおもしろくない。「あいつは家柄でえらくなった」と自分が艦長ではなく教授方頭取という役であることをひがみ、ふてくされた言動で乗組員の非難を受けていた。そして「船酔いが激しく、航海の大部分を船室で過ごすこととなった。」(ブルック『咸臨丸日記』及びニューヨークタイムズ1860,4,17)と報道されるほどだった。
 木村の従者として乗っていた福沢諭吉は、明治になっても勝の態度に不快なものを抱き続けていた。


          小判とドルが不公平

 フィラデルフィアで、上野介は条約批准のほかにもう一つ大事な交渉を行った。当時の日本の通貨と米国のドル交換比率に格差があり、外国人が一ドルを一分銀3枚と換えると一分銀4枚で一両小判に換えられる。この小判一両がアメリカでは4ドルに交換されるから、働かなくても、1ドルが4ドルに増える。これでは日本の小判はほとんど外国へ流出する。
 日本では金と銀の価値比率が1:5と銀を高く見ていて、外国がほとんど1:15くらいであることの不釣合かあらくる不利益をこうむっていたわけだ。横浜で小判の買い占めが起こるほどであった。上野介はこの問題を解決するため、カス国務長官と会談して小判とドル金貨の金銀の含有比率を分析批准するよう粘り強く求め、フィラデルフィア造幣局へ出向いてその不公平を認めさせた。条約批准の陰に隠れて、この話は大きく伝わっていなかったが、彼の経済感覚の鋭さをいかんなく発揮した場面であった


           近代化が国の基本

 各地で大歓迎を受けた遣米使節一行は、米国各州を回っていかないかという誘いを、とにかく用事が済んだのだからと振り切って、ニューヨークから帰国の途につく。大西洋からアフリカの南端を回りインド洋を渡って香港から帰国した。約8ヶ月の地球一周の旅であった。帰国後の日本は、大歓迎してくれたアメリカとうらはらに攘夷運動が激しく、アメリカの話などする者は「外国かぶれ」「売国奴」として暗殺されかねない風潮であり、開かれた国を見てきた使節の一行もほとんどは首をすくめ黙して語らなかった。
 このような時、帰国後の行動にアメリカでの見聞きを役立てた人物として、作家司馬遷良太郎は小栗上野介、福沢諭吉、勝海舟の三人をあげている。たとえばニューヨークタイムズが「小栗豊後守は、アメリカの文明の利器を日本に導入することに大賛成だといわれている」(1860,6,22)と報道したように、上野介は帰国後アメリカの進んだ文明と政治をはばかることなく語り、新しい政治と近代化を急ぐことが外国と対等に交渉する基本となることを説き、すすんで外国の文物を取り入れた。
 神田駿河台の屋敷(明治大学の前)に日本で初めての西洋館を建てイスとテーブルの生活をして、「小栗様の石倉」と江戸で評判となった。この西洋館は明治以降土方久元家のものとなった。
 また横浜にフランス語伝習所を開設し、優秀な若者にフランス語や理科数学を学ばせて横須賀造船所に送り込み、日本人職工とフランス人技師の通訳とした。完成した造船所の幹部として彼らが活躍してゆく。高崎で暗殺された小栗又一も学んだこの伝習所が残っていれば東大以上の大学になっていた、と言われるが惜しいことに明治維新で閉鎖されてしまった。


           責任のある限り努力


 鳥羽伏見の局地戦に敗れたあと、引き上げた大阪城からも抜け出し、江戸に戻った将軍慶喜は、ニセの綿旗におびえ、朝敵になることをひたすら恐れて、戦って局面を打開する意欲を持っていなかった。慶応4年1月15日、上野介は江戸城でお役御免の申し渡しを受ける。
 すでに「土蔵付き売り家」と語って「母屋(徳川政権)は売りに出る」ことを見通していながらも「親(幕府)の病気が重いからといって、薬を与えない子(家臣)がいようか」「我が事(つか)ふるうことの存せん限りは一政権の臣にある限りは、一日として遅滞は出来ない」として、上野介は最後まで日本の近代化に努力した。
 明治以降の歴史教育では、上野介がやったことは徳川政権強化策だから、あるいは官軍に対して主戦論を唱えたから、と悪者のようにいうが、官軍・賊軍は明治以降に付けた名で当時はどちらも官軍だと思っていたのだから、次の政権の構図が示されていないときに無責任な投げ出しをするはずもなく、政権担当者として当然のことをしたまでのこと。それが明治になると幕府を暗黒の政府、井伊大老は朝廷に無断で開国したから悪者とする単純な史観が、幕末の近代化の努力を矮小化し上野介を逆賊視してきた。
 ともかく御役後免になった上野介としては役目としてなすべきことはやったという心境であったろうか。1月28日、「権田村への帰農土着願」を幕府に出し、翌日許可を得て引き移りの準備に入る。


             人材を育てる

 関東各地に合わせて九ヶ所の領地を持つ上野介がなぜ権田を隠棲の地に選んだのか、理由を推測するとそこに人のつながりの濃さが見えてくる。東善寺の中興開墓は五代小栗政信であり、名主佐藤藤七は遣米使節の従者として加えられ、村の若者16人は農兵として取り立てられ江戸で仏式軍事訓練を受けているなど、他の領地には見られない交流の深さがある。藤七はパリ万博に際して出品責任者までつとめている。
 呉服商越後屋にはいって幕末から明治にかけての変革期を乗り切り、さらに三井銀行を創立して現在の三井の基礎を築いた功労者の大番頭三野村利左衛門も、若い頃小栗家の仲間奉公をしていたことからその才能を見出され、引き立てられた人物。平成一年5月に刊行された高橋義夫『日本大変』(ダイヤモンド社)にその経緯が詳しく展開されている。
 こうして見ると上野介の特徴として、人材を他に求めず足元から育てる姿勢がうかがえる。権田に移ってからは、私学校設立の構想を語って次代のために若者に新しい時代に対応できる教育を施し「いずれこの谷から太政大臣を出して見せる」と村人に夢を語った。実際それは可能だったかもしれない。なにしろこの時2ヶ月間、権田村には上野介をはじめ用人塚本真彦、家臣荒川祐蔵、佐藤藤七とアメリカ帰りがじつに4人もいたのだから。


             権田の65日

 権田に到着して3日目に「打ちこわし」という約2千人の暴徒が高崎方面から、途中の村々の富農をおそった揚げ句、上野介の資産を狙って押し寄せた。上野介は家臣や村人約百名を組織して撃退に成功したが、この時江戸でフランス式訓練を受けた農兵16人が大活躍した。
 暴徒が逃げ去ったあとは静かな山村に戻り、上野介は近くの観音山に建築を進めている屋敷工事の見回りを日課とし、養子又一は毎日のように観音山に出来た馬場で馬を乗り回している。家族は山村の暮らしに慣れてきて、近くの河原へ草摘みに出かけるようになった。暴徒に加わった近隣の村役人がわびに来たとき、上野介はそれを受け入れ、若者に教育する必要を説いて寺によこすようにと伝えている。
 そんな平和な中に突如迎えた非業の死であった。そして上野介の死後、村人たちは上野介の生前の業績をはずかしめない働きをする。
       


             小栗夫人、会津へ脱出  

 上野介主従が西軍に捕らえられる前、上野介の頼みを受けた村役人中島三左衛門は村人で護衛隊を作り、道子夫人、母堂邦子、又一の許嫁鉞子らを守って村を脱出した。めざすは会津で、坂上村〜六合村〜秋山郷〜十日町〜新潟、と昼は隠れ夜を歩く苦難な旅を続けた。ことに秋山郷への山道は今でも車が通れないほどけわしい。江戸育ちの道子夫人にとって、主人を殺され、西軍に追われるという、身重の身体にどれほどつらい旅であったかと思う。
 村人はその夫人らを支え、新潟からさらに会津へ至る。まもなく戊辰戦争が始まると村人も会津軍に加わって戦い、塚越冨五郎を高郷村、佐藤銀十郎を喜多方市の戦闘で失う。二人とも二十代の若者だった。農兵池田伝三郎は会津からさらに函館五稜郭まで転戦し、戦後は羅卒(巡査)となり、明治十年には西南戦争に敗戦。西南戦争で受けた頬の傷をひげで隠して京都で巡査としての生涯を送った。
 会津藩家老横山主税の家に身を寄せ、まもなく生まれた上野介の実子国子を加え、中島らは敗戦の会津若松をどうし過ごしたものか、明治2年春江戸に出、さらに静岡まで夫人らを送り届けて村に帰った。乞食同然の姿であったという。


              お首級迎え
 
小栗父子の首級は処刑後館林に送られ、東山道総督岩倉具定の首実検を受けたのち法輪寺境内に葬られた。 会津から帰った中島は殿様の首がないままなのを憂え、塚越房吉と共に今度は館林に出かけて行く。「疲れたから誰か代わってくれ」と言ったかどうか。行動する人間は常に動き、言い訳して動かない者はやはり動かない、ということだろう。中島の耳には「わしも井伊大老のように殺されるかもしれないが、死んでも首と胴は一緒にいたいものだ」とかつて冗談まじりに語った上野介の言葉があった。
 旧領地高橋村(佐野市)名主の人見宗兵衛に相談し、その叔父渡辺忠七(館林細内)の協力を得て法輪寺に至り、「殿様の一周忌が近いので墓を建てたい」というふれこみで場所を確認。苦心の末、一度は失敗、二度目は成功して盗み出し権田村へ持ち帰ると、ごく数人に拝ませ東善寺境内の上野介の本墓に葬った。又一の首級は下斎田村(高崎市)の村役人田口を呼んで渡し、胴体と一緒に葬ってもらった。関係した村人は明治政府の監督下にあるものを盗んだのだから、この事件を「お首級(くび)迎え」と密かに言い伝えた。村に戻った中島はのちに前橋藩に呼び出され藩主から「武士も及ばぬ振る舞い。」とたたえられ、名を「誉田」と改めるよう言われて誉田三平次と改名した。


              姉妹観音

 塚本真彦が高崎で処刑された時、江戸から来ていた塚本の家族は難を避け七日市藩(富岡市)のしるべを頼って避難行が始まった。娘チカは祖母とともに地蔵峠(倉渕村−松井田町境)近くの山中で道に迷い、炭焼きをしていた村人に案内を請うが、村人が村へ降りて支度をして戻ると、二人は待ちきれず、密告を恐れて自害していた。また塚本夫人は男の子と幼女二人を連れていたが、山中で困惑の果てに幼女二人を川に沈め、跡取りとして大事な男の子のみを連れて松井田の民家にたどり着く。祖母とチカは寺に墓があるが幼女二人の話は近年判明したので数年前に寄金で相間川のほとりに姉妹の観音像を建て供養している。
                  
【群馬県トラック事業協会 会報誌『緑風』5号(平成8年〜)〜8号に掲載】